性教育の不在がもたらす構造的被害──規制・表現・教育の三角問題

表現規制に関する学術的政策批評

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第4章 性教育の不在と構造的悪循環

第4節1項 性教育の不在が生む因果の連鎖

調査で確認された全ての事例に共通する構造がある。「教えていない」ことが問題の根本原因であるという点である。

この因果の連鎖は以下の通りに進行する。

性的欲求は生物として自然に発生する。これは純然たる事実であり、そこに善悪はない。しかし社会はこの事実を「あってはならないもの」として扱い、教育から遠ざける。教えられない子どもは、自分の身体に起きていることを理解できない。生理や精通に直面したとき、「これは正常なのか」すら判断できない。理由が説明されないまま「ダメ」とだけ言われるため、自分の欲求に対して後ろめたさが生じる。自己肯定感が低下し、自信を失い、承認欲求に溺れる。承認を与えてくれる相手が搾取者であった場合、実害が発生する。そして社会は「だから性的なものは危険だ」と結論し、さらに教えなくなる。

この悪循環を図式化する。

段階 内容 結果
1 性的欲求が自然に発生する 事実(善悪なし)
2 社会が性を教育から遠ざける 教育機会の剥奪
3 子どもが自分の身体・欲求を理解できない 無知の状態
4 理由なき禁止により後ろめたさが生じる 自己肯定感の低下
5 承認欲求に溺れ、搾取者に依存する 脆弱性の発生
6 実害(性被害・自撮り送信等)が発生する 被害の顕在化
7 社会が「性的なものが原因だ」と結論する 原因の転嫁
8 さらに性教育を遠ざける 段階2に戻る(悪循環)

※本テーブルは本資料の論理構造を図式化したものであり、個別出典に基づくものではない。

札幌市の事例はこの構造の象徴的証拠である。加害した中学生は「断片的な性知識」に基づいて行為に及んだとされている。教えていないから断片的にしか知らない。断片的にしか知らないから判断を誤る。判断を誤るから加害になる。

三重県のアンケート結果も同様の構造を示す(付録B-7-1)。「児童生徒間の性暴力への対応手順がない」が96%、「対応全般への不安がある」が88%。教育する側にも対応する準備がない。

さらに根本的な矛盾がある。子どもは毎日入浴する。自分の性器を見て、触って、洗う。それは日常行為であり、不可避である。自分の身体の一部として物理的に毎日そこにあるものについて、「それが何であり、どう機能し、どう扱うか」を教えないという選択肢は、現実的に存在しない。

第4節2項 子どもの「判断能力」問題

「子どもには判断能力がない」という前提は、規制の重要な根拠として機能している。しかし、この前提自体に三重の自己矛盾がある。

第一の矛盾は、この前提を決定したのが大人であり、子供本人に確認を取っていないことである。「あなたには判断能力がありますか」と子どもに聞いた場合、「ない」と答えたらそれは判断能力の行使であり、「ある」と答えても「判断能力がないから言っている」と処理される。どう転んでも大人の結論が先にある。

第二の矛盾は、因果の方向が逆転していることである。「判断能力がないから教えない」のではなく「教えないから判断能力が育たない」。火が熱いと教えるから火傷を避けられる。交通ルールを教えるから安全に道を渡れる。なぜ性だけがこの原理から除外されるのか。

第三の矛盾は、同じ子どもに対する判断能力の評価が文脈によって変わることである。Z指定のGTA(殺人・暴力のシミュレーション)を親が購入して子どもに与えることは社会的に黙認される。「ゲームと現実の区別くらいつくでしょ」で処理される。しかし性的コンテンツになった瞬間に「子どもに悪影響がある」と騒がれる。殺人シミュレーションには判断能力があり、性的コンテンツには判断能力がないという判定の根拠は示されない。

文脈 子どもの判断能力の評価 根拠
GTA(殺人シミュレーション) 「区別つくでしょ」→ 判断能力あり 暗黙の想定
性的コンテンツ 「悪影響がある」→ 判断能力なし 暗黙の想定
写真集撮影への参加 親・事務所が代理判断 → 子ども本人の同意は形式的にのみ取得され、判断能力の問題自体が問われない 商業的前提
性教育の受講 「早すぎる」→ 判断能力が未成熟 文化的前提